歌伝説「テレサ・テンの世界」V3 ~アジアが生んだ歌姫~
こちらはテレサさんの資料です~
1973年に香港で「日本の父さん」と呼ばれる舟木稔(のちトーラスレコード社長)との出会いがきっかけで日本での活動を開始、ユ ニバーサルミュージック(当時は「日本ポリドール」)と契約し、アイドル歌謡曲路線の『今夜かしら明日かしら』でデビューした が、売れ行きが思わしくなかったため不発。演歌路線に変えたところ、日本でのデビュー2作目となる『空港』が大ヒット、日本レ コード大賞新人賞を獲得する。しかし、1979年、日本入国の際にインドネシアの偽造パスポートを使用したことが発覚し、国外退去 処分となる。その後米国で暮らし、再来日を果たすまでは、香港を活動の拠点にしていた。中華圏のCDショップでは今でも、1982年~1984年頃の香港や台湾での公演の様子を収めたDVDがよく売られている。

1984年再来日。レコード会社をトーラスレコードに移籍、日本でリリースした『つぐない』、『愛人』がそれぞれ150万枚、『時の 流れに身をまかせ』が200万枚を売る大ヒットとなる。1984年から1986年にかけ、日本有線大賞及び全日本有線放送大賞の東西有線 大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞した。1985年12月には、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の 演出をこらしたNHKホールコンサートが開催される。この時の歌唱は彼女のライブ公演の中でも最高の水準のものとして高い評価を得ている。

1987年、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動を殆ど休止するようになった。1990年以降はパリに居住。中華人民共 和国の北京における天安門事件に対する反対集会にも参加し、亡命した民主化活動家とも交流を持った。1990年代に日本をはじめと するアジア各国で二回ほど彼女の死亡説が流れたりもした(一度目は1990年5~6月に父親の葬儀への欠席をきっかけに病死説が、二 度目は翌1991年4~5月に病死説・暗殺説が流れている。死亡説に対してはそれを否定する本人のコメントが新聞記事などに取り上げ られた)。1980年代後半以降のテレサは演歌・ムード歌謡というよりもJ-POP寄りで、ASKAや桑田佳祐、ZARDの坂井泉水らの曲も歌っているため、必ずしも演歌歌手とはいえない部分が多い。日本での最後のテレビ出演は、1994年11月に放送されたNHK『歌謡チャリティーコンサート』(仙台市にて公開録画)だった。

1995年5月8日、静養のためたびたび訪れていたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため死去。42歳の若さ だった。1990年から同棲関係にあった14歳年下のフランス人、ステファン・ピュエールが最期を看取った。同月28日に台北で国葬が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。彼女の棺は中華民国の国旗と国民党党旗で覆われ、台湾での国民的英雄 ぶりがうかがえた。墓所は台北市の北東に位置する台北県金山郷の金宝山にあり、小さな公園のように整備され、本名の一字を取って「筠園」と呼ばれている。墓前には銅像があり、彼女の歌声が絶えず流されている。没後10年目に当たる2005年5月8日には、日本 をはじめとするアジア各国からファン300人ほどが墓所に詰めかけ、追悼集会を開いて生前のテレサ・テンを偲んだ。台湾での彼女 はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されず防腐加工などを施され土葬された。没後50年は生前の姿であり続ける。なお、台湾でこ のような形で眠っているのは、蒋介石、蒋経国、テレサ・テンの三人だけである。

1995年の春にレコーディングする予定で作られた新曲「忘れないで - time to say good-bye -」は、死の直前の5月に完成したため 、彼女に届けられることなく、幻の曲となっていたが、七回忌に当たる2001年にアグネス・チャンと北原ミレイによって同時にレコ ーディングされ、追悼の意が表された。

鄧 麗君(デン・リージュン、テレサ・テン、Teresa Teng、本名: 鄧 麗筠、1953年1月29日‐1995年5月8日)は、1970年代から1990 年代にかけて主に中華圏アジアと日本を中心に活躍した台湾の歌手。日本や台湾、香港をはじめとする東アジアの国々で絶大な人気 を誇っていることから、「アジアの歌姫」と呼ばれている。台湾を代表する歌手の一人。
英語名のテレサ(Teresa)は、彼女自身が尊敬するマザー・テレサに因んでつけたものと言われてきたが、実際は彼女の洗礼名を転用したことが明らかにされている。テンは本名の姓『鄧』の中国語音を英語表記し、ローマ字読みしたものである。

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